昭和42年10月12日 朝の御理解
もう夜が明けた。もう日が暮れた。そういう日々の繰り返しが、日になり月になって、あっという間に半年一年を過ごしてしまいます。その日々の中で私共がどのような日々、どのような在り方で過ごさせて頂いておるか。
私はこれは日々それを思うのでございます。あ、もう日が暮れる。もう夕方、今日一日私はどういう御用をさせてもらっただろうか。相済まんことだなあ、そういう日々でございますけれども、折角お互い又とない貴重な日々をです、如何に過ごすかというところに私はお互いの信心生活がなされていかなければならんと思うのです。
皆さん、どうでしょうか。無意味にただなんとはなしに日々過ごされて行く。それが五年たち十年たち致しまして、そこに何の生き甲斐もないような生活であるとしたんでは、勿体ない話、僅かのその人生がそういう一日の繰り返しで終わったんでは、ほんとに相済まんことである。そういうことを気づかせて頂いて、ほんとに今日一日を有り難い、同時に有意義な少しは人の為にも社会のお役にも立たせて頂けれる日々でありたい。そういう私、願いがです、ほんとに願い続けられなければならんと思う。
願い続けておるようであっても、一日を送くらせて頂いてから、反省させて頂きますと、もう一日のその時間の短いこと・何にもすることなしにもう一日が終わってしまった、そんな一日なんですね。
昨日、丁度私午前中に善導寺に用があってから参りましてから、帰らせて頂いとりましたらそこへ四、五人の方達がお参りをしておられましたから、事務室でいろいろお話しさせて頂いた中に丁度久留米の岡崎さんが参ってみえておられた。ま、ここに信心の稽古をなさる様になってから何年でしょうか。もう四、五年になられましょうか。ようやく最近信心させて頂いておることの有り難さが感じられるようになったというて話しておられます。聞かせて貰ってから、有り難いことだなあとこう思うんです。以前は例えば、自動車歩かれる訳でありますけれども、無理な追い越しなんかをされたり、何かまるきり自分の運転しておる運転を邪魔するようなことで単車なんかで前に出てきてから行くよな若い人達があったりしますと、もうこんちくしょうというような気持ちが先に出た。追い越されたら追い抜いてもどそうといったような気持ちが湧いておったんですけれども、此の頃段々信心をさして頂いていろんなことが分からせて頂くようになりましたら、そういうような場合に思わず知らず金光様、金光様を唱え祈らせて貰わなければおられません。そういう人達の為に、という何げないそうした話をしておられるのを聞かせて頂いて、信心とはそれだなあというふうに思うのです、ね。信心を頂いておった、例えば五年前、信心を頂くようになっての五年後の今日の私のもののみかた在り方、考え方というものがです、そのように変わっていく。皆さんどうでございましょうか。これは自動車の追い越しとかなんとかいうことに限ったことではございません。日々の生活の中にそれがございますね。以前は腹が立っておった。情けないと思っておった。そういうようなことが情けないのじゃない。腹が立つのじゃない。そこに金光様を唱えさせて頂ける祈らせて頂けれる。しかもそれが自分だけの為ではない。人の為にもそれが祈りが思わず捧げられておるというその自分がです、信心させて頂いて有り難いなあ、ということを感じるのです。
お互いの信心が日々の生活の中にも信心が充実して参ります。そこからの御用、そこからのお仕事である。私共、夜がいつも遅いですからほんとにそれこそ、もう夜が明けたという、それでいて一生懸命こうやって御用させて頂いておるようであるけれども、果たしてその御用の内容というものが、果たして神様に喜んで頂けるような御用であっただろうか。少しは御信者さんに喜んで頂けるような御用であっただろうか。少しは家族の者から有り難い存在として受けられたであろうかと思うてみると、神様に相済まんことがわかる。ご信者さんに対しても不行き届きばかり、家族の者からでもお父さんの存在というものが、主人の有り方というものが、もうただただ貴方がおんなさると私しゃ忙しいかばっかりと申しますけれども、側におるとあれやらこれやら言いつけるばっかり、いわゆる迷惑の掛けどおし、そのような主人であったり先生であったり氏子であったりする私がですね。ほんとに相済まん。しかもそれが日々繰り返されておる。それを自分で自覚させてもらい、もう日が暮れる、果たして今日一日どのような私であったであろうか。自分であったであろうかとその内容が岡崎さんが昨日話しておられるそのような在り方、お商売させて頂く者はお客様に対して果たして喜んで頂けれる、少しは世に中にお役に立たせて頂けれる、少しは家族の者からでも有り難いと思うてもらえれるお母さんであり主人であり父親であっただろうかというようにです、私ここんところの反省が日々なされていかなければならないと思う。それでいてもやはりお詫びすることばかりでなしにですね。ただあっという間に一年が過ぎてしまった、あっという間に何十年間という人生を振り返ってみてから何かプラスになるものがあったかというようなことで、あれもでけなかった、これもでけないままにおしまいであったというようなことで一生が終わりになるというようなことでは、こんなに神様に対して相済まんということはないとこう思います、ね。
そういう感じかたがです、信心さして頂くとだんだん目細うなってくる、ね。言うことそしてさして頂くことの中に、これで良いのかと今、私が思うておること、これは果たして神様が喜んで下さるじゃろうかと、思うてござろうかと、例えば自分の思いの中にでもそういう反省をさして頂いて私はようやく信心生活がでけるような気がする。
それもなからずして、とても信心生活なんておぼつかないね。ああもう夜が明けた。又今日一日働かんならん。もう日が暮れかかっておる。今日もきつかった、きつかったという例えば、ことの繰り返しであってはならないと思うんです。それが、巧まずしていつの間にか、自ずと例えば、今まではこんやつがと思うたり、こんちくしょうと思うたりするような相手が目の前に現れましてもです、それがいつの間にかこう思わなければならんのではなく、こう祈って上げなければならんのではなくてです、いつの間にかそれがです、祈りになりいつの間にか祈っておる自分という者を発見出来るような日々でありたいと思うのです。そこからでないと私はほんとの良い御用というのは出来んのであると思います。そこからでないと神様に喜んで頂くという信心生活はでけないと思います、ね。
心してそこんところを目細ういきたい。今日一日の上に朝から例えば朝の五時から夕方の五時までに致しましても十二時間という長い時間があるようにある、けれども果たしてその十二時間という時間をどれほど有意義にですね、過ごさせて頂いておるか、寝たり転んだりしておるという人はないに致しましても、寝たり転んだりと同じような在り方に、いやもう寝たり転んだりよりももっとひどいね。社会にマイナスをするね。人に喜んで貰うどころか、こりを積ませる一日、ね。人からはああ、あんな奴と思われるような自分の内容というものがです、あったんでは私共がこの世に生を受けさせて頂いて、しかも御神縁を頂いてこうした有り難い信心を頂いておる者の値打ちがございません。
いよいよ私は一日一日がまたとない一日でございますからね。ほんとに少しは人に喜んで頂ける為、少しは神様に安心して頂けれるような在り方でおかげを頂きたい。もうこれは私日々の願い、私の願いでございますけれどもね。それでも相済まんことでございます。相済まん一日でございますけれども、私はこういう思いを全然なしに、ああもう夜が明けた、ああ日が暮れた。ああきつい一日であったと過ごしておる人達の場合なんかは、実に勿体ない話だという風に思うのでございます。私共が神様に向かって祈りを捧げさせて貰う、御神前で礼拝をさしてもらうということだけが信心ではない。全てのことに実意をもって何事にもそれを大切にしていくということ。一日が祈りに明け暮れるところの一日であって、ああ今日もおかげを頂いて有り難かったということに締めくくりを作って参ります生活。そういう生活を願いにしておかげを頂きたいと思いますですね。 どうぞ。